近江牛の歴史。

2016年10月28日

近江牛の歴史

江戸時代には、近江の牛肉が「養生薬」の名目で、味噌漬や干し肉として将軍家へ献上、賞味されていました。

近江牛に纏わる話として「桜田門外の変で井伊直弼が討たれたのは、幕府が楽しみにしていた近江牛の献上を断ったから」という逸話が有名です。

水戸の烈公こと、水戸藩主の徳川斉昭は、近江牛(味噌漬けと書いているものもあります)を好み、井伊家から送って貰い、その返礼として、小梅の塩漬を送ったりしていました。

しかし井伊直弼が大老になると、領内で牛馬の屠殺を禁じ、牛肉の献上を止めてしまいます。烈公は仕方なくいろんな牛肉を食べてみるも、やはり近江牛には敵わない。再三に渡る要請にも井伊は一向に応じず、遂には烈公自らが江戸城で井伊に懇願したものの、嘲弄されて断られてしまいます。 この井伊の不遜な態度に、家来であった水戸浪士たちは、主君に大恥をかかせたと激怒しました。

桜田門外の変は、井伊に対して、水戸浪士たちが行った復讐劇である、という俗説です。

水戸の庶民は、「烈公の肉の怨みを藩士が討ち晴らした」と思っていたようで、この事件を「すき焼き討ち入り」とか「御牛騒動」と呼んだと言われています。 この事件から、近江牛は「大老の首が飛ぶほど美味い牛」と詠われたりもしました。

玉蟲左太夫が記した「桜田騒動記」にはこんな句も。

「モウ御免と桜田門」

「食べ物の恨みおそろし雪の朝」

「大老が牛の代わりに首切られ」

真偽の程はわかりませんが、「食べ物の恨み」って恐ろしいですね・・。

明治になり、西洋文化の影響で牛肉食が始まり、近江商人の活躍と、生産者と共に今では窺い知れない関係者の苦労と努力の結果、近江牛は銘柄牛として全国に普及することとなりました。

余談ですが、神戸牛は本来「神戸ビーフ」と呼ばれ、神戸産の牛ではなく輸送のために神戸港に運ばれてきた近江牛を在留外国人が名付けたと言われています。